景観について

1997年1月2日
小 原 茂 幸

都会に住む人々が地方に憧れるものは
「ふるさとの景色」と「ふるさとの味」、
そして「ふるさとの人情」だといいます。
そこには日本人が、存在することの原点があるように思われます。

ふるさと日本の原風景とは、日本人が培ってきた生活の姿に他なりません。
稲作農耕民族であった日本人が
四季折々の天然の美しい姿の中で、培い、育ててきたものです。
日本庭園や盆栽、生け花の中にその姿を見ることができます。
自然と一体化した中で、人間も自然の一部であり、
その地域における自然と融合した中に
本来の住みやすさがあるように思われます。
「風土」という言葉がそれを示しています。
人が集まる大都市では建物は高層化していきます。
田園風景とはかけ離れたものです。
そして地方都市が、押し並べてミニ東京化していきます。

一方、私たちが住む「ふるさと」も、
時代とともに大きく変わっていきます。
大都市近郊にみられる大規模な宅地開発による造成こそ無いものの、
開発という美名の下に、
傷つけられ破壊された野山に「ふるさと」の面影は変わりつつあります。

いつ頃からでしょうか。
こんなに変わってしまったのは。
一つには圃場整備事業の頃あり、
また一つには、モータリゼーションの進展、
高速道路の開通の頃からでしょうか。
両者とも私たちの生活を改善し、住みやすくしてくれました。
しかし、効率を追求するあまり、失ったものも多いのです。

農業の構造改善事業によって、圃場整備が行われ、
雑木林や、原野、屋敷林が失われていきました。
無駄なものは省かれ、機械化が進みました。
そして、鮒や鯉やドジョウがいた川はコンクリートで固められ、
魚はもとより水生昆虫も住めない川に変えられました。
人間も自然の中の一部であるとするならば、
魚も住みにくい場所は人間も住みにくい場所になっていきます。

一方、新しく大きな道路も随所に建設されました。
かつて江戸時代末期まで、日本の道路は御かごや牛車の文化でした。
それは並木が続く、歩くための道だったのです。
ヨーロッパは古代ローマから馬車の文化が発展してきました。
歩くためだけの道路に今や、自動車がひしめき合っています。
日本の道路事情が良くないことは歴史的な産物です。
しかし今や、世界でも有数な自動車王国になった日本にとって、
道路は重要な生活の基盤です。
効率面からも安全面からも、そして景観からも、
計画的な建設が望まれます。
道は文化を運び、文化を築くものだからです。
しかし、山を切り崩し、谷を埋めて造られた道に
たぬきやウサギなどの獣の死体を見掛けることもままあります。
死なないまでも、彼らの生活も大きく変化しています。
道路一本の建設によって、人が移動し、街までもが移動していきます。
生活は豊かになり、便利になりました。
しかし今、自然と共生した街造りが求められています。
なぜなら、私たち稲作農耕民族は、
自然の中での一体感を心の原点としているからです。

「二つのアルプスが映える街」とは、
駒ヶ根市のキャッチコピーです。
中央アルプスと南アルプスの山並みがそれはすばらしく見えます。
四季折々の山の姿にしばしば感動させられます。
この姿にふさわしい環境をいかに築いていけるのでしょうか。
景観についての議論が話題になっています。
そこで、最近気になることがいくつかあります。

この地には、県外からもたくさんの観光客が訪れます。
しかし、せっかくの景色が台無しになっていることがあります。
それは電線です。
駒ヶ根高原一帯の電線をすべて、地下に埋め込んでほしいと切に願います。
景色に感動しながら、カメラを構えるとき、
どれほど、電線や電柱に泣かされていることでしょう。
せっかく美しいアルプスの景色もいたるところ電線によって、
景色が分断されています。
これは非常に残念なことです。
かつてアクセス道路が開通した当初、
沿道に電柱が無かった時期がありました。
広々として、のびのびとした道路の不思議な感情を、
今も忘れることはできません。
電力会社の方々もぜひ検討してほしいものです。

また、駒ヶ根看護大学の誘致とともにアパートが急増しています。
田園地帯には見られなかった景色です。
アパートが増えることは良いのですが、
少なくとも屋根だけは平らな大陸屋根を遠慮してほしいと思います。
大陸屋根は降雨量の少ない、いわば砂漠地方の建て方です。
この風土に合った建築様式が取り入れられるべきだと思うのです。

建物の高さ制限や、色彩の制限も必要になります。
屋外広告物も野放図に建てられることは見苦しい限りです。
現在、中央道の左右500m、駒ヶ根高原一帯はこの規制がひかれています。
できれば、アクセス道路、広域農道、
伊南バイパスにもこれを適用してはいかがなものでしょうか。

工場などの建物も敷地目いっぱい建てるのではなく、
ゆったりとした敷地に程よい大きさで建てられる余裕がほしいと思います。
すなわち建ぺい率の問題です。
周りに緑の木々を植え、植栽を義務づけるようにしてほしいものです。
緑豊かな環境を持った職場から、
優れた製品が造られることが望まれます。

また、大田切川など護岸工事の方法が変わりつつあります。
そこに住む人々が水に親しめるようにという配慮からです。
これを更に進めるならば、
魚や昆虫も住めるビオトープ的なものにまで発展させるべきではないでしょうか。
人間の見た目にとっては良くても、
魚や昆虫も住めない川は、やはり死んだ川です。

景観、それは抽象的なものであり、
そこに住む人々の価値観によって大きく作用されるものです。
千畳敷カールにチュウリップやマリーゴールド、
サルビアが植えられていたらどうでしょう。
同様に神社や仏閣の境内にもそれにふさわしい植栽が必要です。
その見本となるものは明治神宮や伊勢神宮の森であり、
比叡山延暦寺の環境ではないでしょうか。
下草を刈り、都会の公園のようにした境内や、
神様が降臨するといわれる山の頂上に里のドウダンツツジを
植えることが果たして最良の方法なのでしょうか。
人間の内面に、心に問い掛けるのが宗教であるならば、
それにふさわしい環境も必要です。

一人一人が我が家の庭に気を配るように、
身近な地域から、町並みに気を配ることができればと思うのですが、
道路に植えられた並木の葉が、
自宅の雨樋を詰まらせるから止めてほしいだの、
落ち葉掃きがたいへんだから反対だなどの声を聞くとき、
環境整備の難しさが見えてきます。

町中にある森にせよ林にせよ所有者の意識によって、
保たれているにすぎません。
これもいつ何時、
隣家より日陰になるから何とかしてほしいと言われかねません。
町全体が緑の公園のような住宅街や商店街。
豊かな田園風景とマッチした環境は、
一人一人が意識しないことには難しいものです。
規制という言葉は緩和という言葉がすぐ後にくるご時世ですが、
社会的資産、社会的費用を考えるとき、
これは必要不可欠のものだと思います。
ヨーロッパなど歴史的な町並みを維持してきている国には
これらの規制は不可欠なものだと言います。
第2次世界大戦で、瓦礫の山と化した町並みを、
戦争以前の姿にそっくり復元した街もあります。
美しい町並みはそこに住む人々の共通の意識と
不断の努力によって造られたものなのです。

今、21世紀を目前にして、
限られた資源と増加する人口の中で、
個人的な豊かさの追求の時代から、
社会的な豊かさを追求する時代へと変わりつつあります。
なぜなら、
真の個々の豊かさは社会の豊かさが無ければ完成されないものだからです。
美しい景観を守るとともに育てられるかどうかが
私たちこの時代に生きる者に課せられた課題です。
一度切り倒した木や林は再び元の姿に戻すには
数十年、数百年の月日が必要です。
ナショナル・トラストなど先人の知恵を借りながら、
残すべきものは残し、
それ以上に「新しいふるさと」を創造していきたいものです。


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