「住まい」について

1996年11月6日
小 原 茂 幸

人間にとって住まいとは何なのでしょう。
具体的には生活の場。
すなわち、寝起きするところ、食事をするところ、
くつろぐ場所、お風呂に入れるところ、
親しい仲間と語らう所、等々でしょうか。
「雨露がしのげればいい。」という人から、
「家は一国一城の主が住む城である。」という人まで、
思いは様々です。

我が家は昭和27年父母が、結婚をしたときにさかのぼります。
父は7人兄弟の5番目で、戦後、結婚を機に新宅として別家しました。
当時としては農業で独立できるだけの田畑と家を継承された訳です。
家は全て自家用材で建てられたそうです。
戦前は桃畑だったという畑の中の一軒家でした。
今でも一番近いお隣さんは50mは離れています。
我が家を中心にして半径300m以内に住宅は10軒ほどしか在りません。
そんな場所ですから、建ててすぐに電気は引かれず、
新婚生活の一冬はランプの生活をしたそうです。
田の字型の小さな可愛らしい家で、珍しく桃色の瓦を乗せていました。
当時としては、小さなモダンな家だったのでしょう。
私が小学校の頃まで、
「赤い屋根の家」といえばたいがいの人に解ってもらえました。
赤い屋根の家は我が家と保育園ぐらいしか在りませんでした。

電気を引いて間もなく父は大枚をはたいてラジオを買ったそうです。
当時としては高価で贅沢なものでした。
母は陰で泣いたそうです。
しかし、長く退屈な冬の夜を、
このラジオによって、どれだけ助けられたことでしょう。
私も小学校の頃、帰宅するとNHKの少年ラジオ劇場などに聞き入り、
想像をめぐらしたものでした。

この地で、米を作り、葉タバコを育て、私と妹の2人の子供が大きくなりました。
子供が、大きくなるに従い、
北に増築し、南に増築し、物置を建て、と増改築を繰り返しました。
南に増築した時にアルミサッシを入れました。
大工さんが、北割2区では初めてサッシを使うと言っていたそうです。
このころから父は会社に勤めるようになり、兼業農家になりました。
掘り炬燵は豆炭こたつに代わり、
やがて、電気コタツに代わっていきました。
冬の朝、母はまだ暗く寒い中から早起きして、
竈に薪を燃やして炊いたご飯は、やがてガス釜になり、
電気釜になり、タイマーをセットすればよくなりました。
そして母もパートで勤めるようになりました。

やがて、テレビを我が家も購入することになりました。
テレビを買うと電気屋さんより、
松本のヘルスセンターに貸し切りバスをもって招待された記憶が有ります。
テレビはやがてカラーTVになり、
現在は、かつての農事有線放送がCATVとなって、
衛星放送まで見られる時代になりました。

一方、我が家に1台有った自転車は、
父が通勤するようになってオートバイに代わり、
やがて、軽自動車を購入する事になりました。
自転車を扱い、オートバイを販売していたお店が、
自動車も販売するようになりました。
その後、いくつかの車を乗り換えて、
今では乗用車、ワゴン車等4台の車が停められています。
日本の経済成長にあわせて、豊かな暮らしができるようになりました。

そして、私が結婚式を挙げた1983年、「離れ」を造りました。
母屋から、5mほどの所です。
増改築だと借り入れの限度がありましたので、全くの新築でした。
全額ほとんどを借金し、建坪15坪、総面積約30坪の小さな家が建ちました。
1階に居間、台所、風呂トイレ、寝室と基本になる部屋を配しました。
2階はワンフロアですべて書斎兼居間。
50年もつ家がほしい、
部屋を個室と言うより空間としてとらえたい等と、
様々な要求を箇条書きにした結果、
鉄骨造り総2階、居間は2階まで吹き抜け、
2階は階段を中心にして回廊。
寝ていても星が見られたり、月の光が射し込む天窓が2カ所。
暖房はオンドル方式の床暖房。
とにかく変わった家ができあがりました。
「住み易い家を建てるのなら住宅メーカーに、
個性的な家を建てるのなら設計士に。」
という設計士でした。
見栄を張らず(過飾をさけ)機能性を重視したつもりなのですが、
個性があふれています。
約3年に一度、居間の照明器具の蛍光灯を交換するのには、
庭仕事用の三脚を運び入れて命がけです。
しかし、天井が高いことは気持ちがいいことです。
子供が大きく育ちます。
確かに住み易いとはいえませんが、妙に楽しく、そして落ち着ける家です。
台所もお風呂も有るのですが、食事やお風呂は母屋を使い続けています。
スープの冷めない距離も良いのですが、
「一つのテーブルにお年寄りがいて、孫がいる。」
やはり、これが理想だと思います。
我が家の味、嫁の味、年寄りの好み、孫の好みとギャップは有るのでしょうが、
それぞれの我が家の味を継承し創造することが文化につながっていきます。
これは食事に限らず、生活そのものも同じことがいえます。
父母から子へ、子から孫へと継承しなければならないことも多いのです。

そして昨年、
とうとうこんな田舎の一軒家にまで下水道が完備されることになりました。
台所、風呂、トイレなど水周りを改築するか迷ったあげく、
史上最低金利、消費税アップ等の状況から、
築後40年の母屋を壊し、結局は新築することに決定しました。

平成7年正月、3冊の単行本と10冊ほどの雑誌を読み、
標高750m、夏は涼しく冬は寒いこの地に、
「贅沢はできない。とにかく快適に住みたい。」がために、
どのような家を造ったらいいのか検討しました。
その結果、
「高気密、高断熱、計画換気」、この3つがそろった家に行き当たりました。
床、壁、100mm。天井は200mm以上の高断熱材をたっぷり使い、
窓はペアガラスの樹脂サッシ、
天井裏に通風管を各部屋につなげ、
熱交換システムで給排気、
戸外に設置した、灯油ボイラーで、家全体を暖房する、
北海道使用の家を選びました。
今度は木造平屋瓦葺きの家です。
高齢化時代に合わせて、床はフラットにし、
廊下やトイレには手すりもつけました。
南に各部屋を配置し、
北東に台所、南東には居間を、
西側には畳の部屋2間を置き、
北側に水周りを集中させた、長方形の家。
屋根は切り妻。外壁はサイディング。
建坪約43坪。シンプルな家です。
低金利時代とはいえ、今度もほとんど全額借金です。
物価高とはいえ、離れを建てた時の約2倍近い坪単価でした。
アパートやマンションを借りて暮らすことと比べれば、
月々の支払いで、家が自分のものになるのだからと考えるわけです。
しかし、米国等に比較して日本の家はやはり高すぎます。

おかげさまで、昨年10月に完成し、丸1年が経ちました。
食事や風呂は母屋で、寝るのは離れでというスタイルを続けたのですが、
昨年の冬、電気毛布を全く使わずに寝ている母屋の父母と、
枕元の温度がマイナス7℃を記録した離れとのギャップに驚き、
2月3月は母屋に疎開しました。
そして、この11月再び、夜は母屋に寝ることにしたのです。
どんなに戸外が寒くても、
どの部屋も10℃以下にはならない快適さが何よりです。
昨年の冬、父は共著した本を売り歩いた末に言ったものです。
「いろいろな家を回ってきたけれど、金持ち(旧家)の家ほど寒い。
おらほの家が一番暖かい。」と。
大きな家は全館暖房はできないし、
部屋ごとにコタツかストーブを利用しての暖房です。
そこにお年寄りが2人だけ、子や孫は別居。
そんな家が多かったようです。

私が生まれた年に植えた樫の木は今や大きな枝振りの木に育ちました。
「家庭とは、家と庭と書く。
家を建てても庭が無ければ家庭にはならない。」とは、
ある大工さんの弁ですが、
おかげさまで、我が家の庭には様々な木が植えられました。
何もない畑に、買い求めたり、譲り受けたりした木や草花が植えられています。
どんなに小さな木でも植えておきさえすれば、大きくなります。
この春は親子3代、人力で庭石を動かしました。
やはりある程度の大きさの庭は欲しいものです。

住まいは必要以上に大きなものは無意味です。
大きな家を建てられるのなら、
もっと他のことにお金を使うべきです。
どうせ借金をするにせよです。
また、機能的なものがベストだと思います。
動線をかなり検討しました。
さらに、ちょっとした味付け、遊び心が大事です。
そして、家族健康で、仲良く暮らしていさえすれば、
何とかなるものです。

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